百武日記

自信がない人が自信を持って生きるためにはどうすればよいか。日々考えたこと、学んだことを記録し、自分の武器にする。

ありのままの男性を好きになってくれるのは母親だけ 「河合隼雄の幸福論 (河合隼雄)」

著者が子供劇場の仕事をしている人たちと雑談していた時のこと。

最近の子供たちは、劇を見ていてもそれに入り込まずに、

なんのかんのとやじを言って劇の流れを止めようとするらしい。

ピストルを見ると「あんなのおもちゃだ」と言う。

人が死んでも「死ぬマネをしているだけ」と叫ぶ。

悲しい場面の時に冗談を言って笑わせる。

どうも「クライマックスに達してゆくのを、

何とかして妨害しようとしている」子供がいるのだ。

 

主催者の人たちが最も悲しかったのは、

そのような子供たちがやじを叫んで騒いだあとで、

その子の親たちが「今日は子供たちがよくノッテいましたね」と

喜んでいるのを知ったときである。

この親たちは「ノル」ということをどう考えているのか。

一見子供たちは騒いで楽しんでいるかのように見える。

しかし、著者に言わせれば、

この子供たちは劇の展開に「ノル」のに必死で抵抗しているのである。

我を忘れるのが怖いのだ。

 

どうしてこのようなことが起こるのか。

素晴らしい体験に触れたとき、人は我を忘れてのめりこむ。

そして、再び我にかえるときにその体験を吸収する。

それができるためには、我を忘れて自分を投げ出しても、

「大丈夫よ」と抱きとめてもらう経験が必要だそうだ。

人は我を投げ出し、我を受け止めてもらうことで成長する。

 

ところが上記の子供たちは、このような我の投げ出しと受け止めの経験が

少なすぎるのではないか。

このような受け止めは、簡単に言うと「まるごと好き」と誰かに言ってもらうことだ。

上記の親は「かしこい子好き」「おとなしい子好き」、

あるいは「夜眠っているときは好き」というふうに条件つきで考えてしまう。

だから子供たちは自分をまるごと投げ出しても抱きしめてもらえる経験が少ない。

 

こうした子供たちは「我を忘れる」のが怖い。

うっかり忘れると元に戻れないかもしれない。

そこで、自分の頭をフル活用してやじをとばす。

親も子供をまるごと抱きしめることを知らないので

「うちの子はノッテいる」と喜んでしまうのではないか。

 

私がこの話を読んで思ったこと。

「ありのままの男性を好きになってくれるのは母親だけ」という言葉だ。

男性が、女性に好かれたい時に、

ありのままの自分で好きになってくれる女性はいない。

唯一好きになってくれるのは母親だけだ、という内容だった。

ところが上記の例では、母親がありのままの子供を好きになっていない。

「~だから好き」と条件付きで好きになっている。

私は、母親はやはり「ありのままの」子供を「まるごと」愛情を注ぐべきだと思う。

 

ただし、社会においては別である。

社会においてはむしろ逆で、ありのままの自分で評価されることは少ない。

むしろ「仕事ができるから」「親切にしてくれたから」「かっこいいから」といった

 「~だから」評価する、といった条件が必要になる。

家庭においては、ありのままの自分を受け入れてもらえるべきだが、

社会においては、ありのままではダメだと思ったほうが現実的だと思う。

大事なのは「ありのまま」と「条件付き」の自分の使い分けではないか。

 

自信についても同様のことが言えると思う。

ありのままの自分に対する自信は大事だ。

そもそもそれがないと何にもできない。

しかし、社会においてはいつまでもありのままでは通用しない。

「~だから」自信が持てる、という条件付きの自信も必要になってくる。

ありのままの自信と条件付きの自信。

そのバランスをとっていくことで本当の自信につながるかもしれない。

 

本日の武器「ありのままの自分に自信をもち、条件付きの自信を育てる」