百武日記

自信がない人が自信を持って生きるためにはどうすればよいか。日々考えたこと、学んだことを記録し、自分の武器にする。

負けたときこそジタバタするな 「ハンパな人生論より極道に学べ (宮崎 学)」

人生には連勝もなければ、連敗もない。

長い目で見れば、うまいこと浮き沈みが調整されている。

ということは、著者に言わせれば、人生は博奕みたいなものだという。

では、博奕で器量が問われるのはどういうときか。

「大勝したときに、いかに景気よくお金を使えるかで人の器が測れる」。

そう考える人もいるかもしれないが、著者は逆だという。

大負けしたときに人の器の大きさが決まる。

 

賭場では「負けの連鎖」というやつがある。

負けが込んでくるとカッカと入れ込み、自己抑制がきかなくなって

負けが負けを呼ぶのだ。

気がつけば有り金を使い果たし、それでもおさまらずに

金を借りてまた張る。

著者も昔同じような経験をした。

負けが重なり、徹底的に熱くなり、抑えがきかなくなった。

「勝つまでは一歩も引かねえぞ」と鬼気迫る形相で言い放ったとき

その様子を見ていた博打打ちが

「にいさん、もう往生せえや」と声をかけてきた。

 

往生するとは負けを認めることだ。

しわがれた声だったが、凛とした響きがあった。

著者の頭がフッと静まった。

そしてその博奕打ちはこう言った。

「にいさん、博奕で男が見せ場をつくれるのは勝ったときやない。

勝ったら誰かてええカッコするんや。

負けたときこそ正念場、男の見せ場なんやで」

 

著者は、耳から鱗が落ちた気分だったという。

実際、勝っている奴は誰でも上機嫌で気前がよくなる。

ところが、負けが込んでくると表情はガラリと変わる。

若い衆を怒鳴りつけたり、殴りつけたりするものもいる。

勝ち負けで表情も態度も一変するようなタイプは、

たいがい狭量と決まっている。

勝って驕らず、負けて泰然、という人間が周囲にも器量の大きさを感じさせる。

 

ある堅気の博打打ちが、一晩で数千万円負けた。

しかし、そのだんなは賭場をあとにするとき

「楽しく遊ばせてもろたわ。いやあ、気分ええなあ」と一言いった。

その表情にも口調にも、負け惜しみや、やけっぱちの捨て台詞のような

雰囲気は全く無かったという。

 

負けるために賭場に来るものはいない。

負けたのは完全に思惑が外れたわけだし、悔しさで腸が煮えくり返って当然だ。

にもかかわらず、粋なやせ我慢をし通したその旦那は

あっぱれな往生際だったと著者は言う。

 

もちろん博奕は博奕だから褒められた行為ではない。

唯一、博奕から学ぶものがあるとすれば、往生際だけである。

人生でも負けを認めざるを得ない局面は何度となくある。

そおときに他者に責任を転嫁して愚痴るか、いいわけに終止するか、

あるいはジタバタもがいて醜態をさらすか、周囲に当たり散らすか・・

その往生際の良さが、その人の値打ちを決める。

 

何かに負けたとき、いつまでも引きずっているのは

往生際が悪いと言える。

人や物に当たり散らせば、なおさら悪い。

淡々と往生する気構えをもつこと。

そうすることで自信につながるかもしれない。

 

本日の武器「男の値打ちは往生際」