百武日記

自信がない人が自信を持って生きるためにはどうすればよいか。日々考えたこと、学んだことを記録し、自分の武器にする。

子どもが好きになれない母親 「河合隼雄の幸福論 (河合隼雄)」

自分の子どもがどうしても好きになれない、という母親の相談が増加している。

自分の子だから好きなはずだ、好きにならなければ、と思うのだが

そう思えば思うほどうまくいかない。

別に、嫌いとか憎いとかいうのではなく、

母親としてするべきことはしているので傍から見てもおかしくはない。

しかし、自分の気持ちの中では、何だかよそよそしい感じがする。

 

言うまでもなくこれは本人にとっても、子供にとっても重大な問題だ。

何とかしたいと焦れば焦るほど余計にうまくいかない。

親子の感情というものは、うまくいっている人にとっては簡単であり、

うまくいってない人にとっては極めて困難なことである。

例えば、子ども3人のうち、下の2人とはうまくいっているのに、

上の子とだけはうまくいかない、という人もいるそうだ。

下の子とうまくいっているのなら、その調子で上の子と接すればいいと

思う人もいるかもしれないが、どうもそうはならない。

人間の心は一度引っかかり始めると、なかなかスムーズにはいかない。

 

このようなときに、自分は母親として失格であるなど、

自責の念が強くなりすぎると余計に問題が深刻化する。

あるいは何とかしようという気持ちが強すぎると、

子どもをむやみに甘やかしてしまったりする。

 

要するに「意識しすぎる」とかえって問題が大きくなることがあるのだ。

「意識する」というのは人間と動物の違いの一つであるが、

どの程度意識するかは案外難しい。

例えば、道を歩いているときに、右足の次は左足と、いちいち意識していたら

歩けなくなってしまう。だが、無意識に歩いてしまうと障害物にぶつかる。

 

子どもが生まれてきたときに、フツーは子どもを可愛いと感じ、

赤ちゃんも笑って母親の気を引こうとする。

このやりとりが自然と流れていけば問題ないのだが、

このような流れを抑止するような何かがあるとうまくいかない。

頭ではかわいい、かわいがらなくては、とわかっていても

自分の存在全体が関わってこない。

何かそれを止めるわだかまりがある。

 

著者のところに相談しにきた母親は、話し合っているうちに

子どもとは別の何らかのわだかまりが語られて、

それに対して「本当にそうですね」と共感していると、

わだかまりが溶けていく。そうなると自然と親子の関係がよくなることが多い。

このわだかまりは誰しも持っているもので、この母親だけが悪いということではない。

 

昔は著者のところには、あまりこのような相談がこなかった。

昔はわだかまりが少なかったのかもしれない。

人間は「進歩」をするとわだかまりが増える。

それは頭を使って考えたり、意識したりすることが増えてくるので

昔は自然と無意識にやってたことにわだかまりが生じるからだ。

何となくやりすごすところを、意識したり考えすぎたりすることによって

人間関係にわだかまりができる。

 

意識しすぎるということは、心配しすぎるということにもつながるのではないか。

例えば「平均値」というものがある。

三歳児の平均体重を超えると「太りすぎ」と心配したり、

五歳児の社会的発達はどの程度なのかを調べて、自分の子どもと比較して心配する。

それも平均値を意識しすぎて起こることではないか。

 

何もかも平均通りの子供の方が珍しい、と著者は言う。

心身の発達にしても、早かったり遅かったりしながら

その子供なりの特徴を示しつつ伸びていくものである。

何もかも平均通りの子供がいないのなら、

何もかも平均通りの大人もいない、と私は思う。

平均を意識しすぎて「普通の母親なら~」と悩んでしまうことはないのではないか。

向上心を持つのはいいことだが、平均を必要以上に気にしすぎてもよくない。

究極的には、その人なりの成長の仕方に収束するのだと思う。

 

著者は言う。

子供を好きになれない母親は、妙に自分を責めたり、焦ったりせず、

心の流れに身をまかせるようにすると、何となく問題が消え去ることもある、と。

 

がんばっているけれども、どうもうまくいかない。

普通の親なら、普通の30代なら、と気にして、自分が普通以下になった気になる。

そういったときに、自分を責めすぎず、いったん気にすることをやめる。

そうすることで自分の気分や、周りの状況が落ち着いてくる。

嵐が来たら、嵐が過ぎるのを待つのも時には必要ではないか。

そうすることで自信につながるかもしれない。

 

本日の武器「平均を気にして自分を責めすぎない」